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都合のいい内心 [2005年3月]

都合のいい内心

まず、本エントリでは、冷静さを欠いた表現や、不穏当な記述が出てくるであろうことをお断り申し上げます。それぐらい腹に据えかねています。

昨日、NHKのクローズアップ現代で国歌・国旗の問題に関する内容が取り上げられました。

確かに、必要以上にクローズアップされていました。

職責すらろくに果たせないで、ガキみたいなことしか言わない教師の言い分についてのみ。

国谷女史は理知的であるなと思っておりましたが、非常に残念なことに半ばヒステリックに国旗掲揚や国歌斉唱が強制であるということを繰り返し伝えておりました。

国旗や国歌に対して、敬意を表せない人がいることも、それに戦争の匂いを感じてしまう人も、それに強い嫌悪感を持つ人もいるでしょう。
それらは決して問題ではありません。
そう、内心の自由という彼らの造語を使うならば、心の内でどう思おうが、どう感じようが何ら問題はありませんし、それは他人に干渉されるべきものではないでしょう。

内心の自由、思想・信条の自由に限らず自由という権利は、現代においては普遍的な権利であり、何人からも侵されないものでしょう。
ただ、それは、ある枠の中、制限された中においてのみ行使したり表現できるものであり、その垣根がなくなったら自由はもはや自由足りえないでしょう。

制限された枠の中で如何様に自由を謳歌しようが、それは私は勿論、誰であっても干渉するものではありません。
逆に制限された枠を超えたところでその自由を謳歌しようとすれば、必然的にその他の自由を侵し、干渉することになり、それには応分の処置を講じなければなりません。

簡単に言えば、こういう教師達のそれは、単にその制限された枠の外での自由という権利の行使である、だから応分の処置が講じられたということに過ぎません。

悪いことしたら罰せられる、それだけのことじゃありませんか?

内心の自由がどうだと声高に倣岸に騒ぎながら、ペナルティにびくびくする、そして何かと言えば人権侵害だなんだとキチガイみたいに騒ぐ。
内心の自由って、人権って、そんな軽い、薄っぺらなものなのか。
自分の信じることに自信があると言うならば、どうしてもっと敢然に毅然に立ち向かわない。
自分の我儘が通らなかったら、被害者面して、弱者のふりして人権侵害かよ。笑わせるな。

子供の権利、自由というが、そもそも自立して色々なことができるのであれば、最早教育の必要ないはず、であれば刑法その他で加減する必要もないはず。
就学児達は、自立していないからこそ、国民としての義務が免除されているのであって、義務も与えずに権利を認めることはできないでしょう。
もし、児童・生徒に課された義務があるとすれば、それは国民としての必要な資質や矜持を学ぶことでしょう。
ならば、社会一般でしなければならないことをシミュレーションすることも教育の中には織り込まれるべきで、そこで、遵法など義務に関する教育と共に得ることのできる権利について教えるというのであれば問題ないでしょう。

世の中では自侭放題にできないんだということを教えるとなれば、学校で行われる殆どの事が子供にとっては強制になると言ってもいいでしょう。

ところで、子供が思うがままにしたいという内心を尊重し、強制しないと言うのであれば、

始業時間までに登校させるのは強制
制服を着るのは強制
授業中に私語を禁止するのは強制
宿題や予習をさせるのは強制
校則で生徒を縛るのは強制
授業に出させるのは強制
全校集会で整列させるのは強制
校歌を起立斉唱させるのは強制
学校そのものが強制

などはどうなるのでしょうか。
生徒の内心の自由が認められるのであれば、生徒達はこれらに従わなくても問題なく、教師はこれを生徒に強制できないはずです。彼ら教師の主張が正しいのであれば。

と言えば、こういう手合いはすぐにそれとこれとは別とか国旗や国歌は悲惨な戦争を想起させるとか、軍靴の足音が・・・などとまるでどこかの国の人の持病のような反応を示しますが、

例えば彼らに
国旗や国歌が問題であれば、変えますか?変えれば無問題ですか?
国旗や国歌に反対すれば、戦争はなくなりますか?
過去に贖罪すべき罪があるとして、国旗や国歌に異を唱えれば免罪になりますか?
アナタの生徒達は、国旗の掲揚や国歌の斉唱を強制されたぐらいで軍国主義者になるほどバカですか?

とか、↑に挙げた事例について
これらのことと国歌や国旗と何がどう別なのか明確に理路整然と説明できますか?
内心にはいい内心と悪い内心があるのですか?
生徒がこういうことを主張したときにどう説明しますか?

などと質問しても、どれに対してもキチンとした回答はできないでしょう。
なぜなら、結局は、偏向したイデオロギーに凝り固まったイカレタ思考から生まれた産物に過ぎず、単なる我儘でしかないからです。

内心の自由も、それが個人の中にあるうちは、何人なりとも侵すことができないものでしょうが、ひとたび外にでれば、社会的な枠という制限を受けるのは当然のこと、その分別すらできないものが人に物を教え諭すとは悪い冗談にもなりません。こんな社会不適合者にものを教わる子供達は悲劇の主人公と言っても過言ではないでしょう。

ときに、こういう教師を擁護する連中は、過去の園遊会で今上天皇が「強制は良くないのでは」と発言したことを持って「そら強制は良くないって天皇も言っているではないか」などと強弁します。

でも、その天皇を称える歌だから歌いたくないって言ってんのはアンタ達だよ。常日頃、天皇制について否定的な連中が都合のいいときだけ天皇のお言葉ですか?恥ずかしくないのかね、そんなこと言って。

天皇陛下には、実行的な権力は持てないはずでしょ、現憲法では象徴なんだから。

もし天皇陛下の言葉を持って、国民の負託を受けた代表が行政で立法した法律に何らかの改変が為されるとなれば、それこそ問題じゃないの?

それとも、天皇陛下のお言葉だから、従えとでも言いたいのかな?

だったら、
天皇陛下が戦争に行けっていったら、アンタ達いくのかい?

卒業式、終業式、入学式、始業式など子供の成長の証として記念になる日を親はどういう気持ちで迎えようとしているのか、そしてどんな気持ちで臨んでいるのか。
そういう気持ちを忖度することすらできない幼稚な思考しか持ち得ない人間が教師として存在していることはやはりどうしても許せません。

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参考エントリ(拙ブログ内)
覚悟の起立ぅ?:http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-03-24-1
今そこにある危機:http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-03-17-1
わが師の「怨」:http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-03-24-1
人権侵害乱発:http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-03-25
反対のための反対:http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-03-28


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コメント 12

ko-ba-ber

こんばんは。
私も拝見しました。
そもそも学校とは強制するべき場所です。
職責を果たせないのなら、教師を辞めるべきであり、塾でも開きなさい。
強制がいやなら、子供が学校に通うのも強制です。詭弁です。
こういう奴らに限って、サッカーの試合前には大声で国家を歌うんでしょうね。
by ko-ba-ber (2005-03-29 20:52) 

FD3S

ko-ba-berさん、こんばんは。
こちらにもコメント頂きありがとうございます。

>職責を果たせないのなら、教師を辞めるべき
まさに、そのとおりです。幾らでも代わりはいるんですから。
むしろ健全で熱心な人達が教師になれていないという現実もあるんですから。

それにしても、我儘と権利の区別ができないというのは、ある意味哀れな存在なんですよね。言えば言うほど、この世の常識から乖離している様は滑稽というよりも、哀れというか無様というか。

破綻した思想を無理に繕おうとするから、穴だらけになって相手にされないということに自覚がないんでしょうね。反対のための反対、対案なき反対、不毛です。
by FD3S (2005-03-29 21:00) 

黄泉若宮

感情に拠る言を、言論とは謂はない。
by 黄泉若宮 (2005-03-29 22:49) 

FD3S

黄泉若宮さん、いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。

>感情に拠る言を、言論とは謂はない。
激してはいけない、冷静に論理的に、徒に煽るではなく諭すようにと思うのですが、書いているうちに熱くなって中々抑えが効かなくていけません。
最近、特に荒れた記述が増えていますね。少々自制+自省します。
どうもありがとうございました。
by FD3S (2005-03-29 23:04) 

黄泉若宮

スナフ殿が先日、「土俵が同じで立場が同じなら疲れない」と云ってゐた。「嗚呼、成る程。土俵が同じだから疲れないのか。」と得心がいった。(本当に"立場"と云ったか、如何かは疎覚。土俵が同じなら好いと思ったから。眠かった事も原因。)

*:此れはcommentの遣り取りに関する言だが、言論一般に言へる事ではないか。
by 黄泉若宮 (2005-03-29 23:45) 

FD3S

黄泉若宮さん、いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。

>土俵が同じで立場が同じなら疲れない
私のエントリでは、基本的に私と異なる考え(立場)を取り上げることが多いのですが、それは、自己の考えが正しいのかを比較検証するということ、己の言語能力や表現力を高めたいということ、自分と異なる考え方に起因して起きている事象の不条理なところを指摘するということが、私がブログをやっている目的であり、それを維持する推進力であるからです。

ということで、立場は異なるのが前提みたいになっているのですが、感情的な記述に感情的な記述で対応すれば、すでにそれが議論とも言論ともいえぬものになってしまうのはご指摘のとおりです。

同じ土俵で同じ立場の人に共感してもらうためには、努めて冷静に客観的な記述を行う必要があります。
逆に異なる土俵で異なる立場の人に対しても、共感するに至らずとも、「論」として認知されるべきものを目指したいと思っています。
それには、まだまだ紆余曲折があると思いますが・・・。
by FD3S (2005-03-30 01:02) 

黄泉若宮

ええと……よくよく考えたら、土俵も立場も同意だから立場とは云わなかったやうな氣がします。若しかしたら"主張が同じ"だったかも知れません。(記憶が曖昧で、本当に済みません。)
休題。

詰まり、観念が異なってゐても立場が同じなら議論は出来るのです。此処で謂ふ"立場"は、先の"土俵"と同じです。
例へば、国歌の議論をするならば、普通なら"最低でも"『古今和歌集』以後、市井で何う云ふ意味で使はれたか(原義)を知ってゐなければ話が出来ないでせう。明治よりの使はれ方は、勿論歴史の一部ですが、『君が代』反対者の多くは然う云う見方をしてゐません。明治以前は無かったかのやうに振舞ふのです。
此れでは何うしても良くて平行線、恐らくは拗れるでせう。何故なら双方が全体を観てゐると思ってゐるからです。何う云ふ事かと申しますと、片や本当の全体を観てゐますが、片や一部を全体を思って観てゐるからです。

土俵が違うなら連れて来なければ為りません。感情論を「論」とする立場と、然うとしない立場では話の噛み合う事が無いからです。
by 黄泉若宮 (2005-03-30 02:05) 

ホンシメジ

理由を問わず日の丸君が代に反対ならば、いわゆる国旗国歌法の改正運動を行えばよいのです。日本にはその自由があり運動が力をもてばいつかは変えることも不可能ではないでしょう。
現に存在する法律を自己の思想信条と相容れないからと公務員がおろそかにするならそれは職務怠慢であり処罰も必要です。法治国家ですから。

こういった例は少なくありません。反日(公立勤務)教師、反戦自衛官、死刑執行命令署名を拒否する法務大臣。なぜこの人達はそれほどに大事な信条を犯される可能性のある職業につくのでしょう?不思議でなりません。日本には職業選択の自由があるというのに。
by ホンシメジ (2005-03-30 10:10) 

FD3S

黄泉若宮さん、いらっしゃいませ。
コメント、ありがとうございます。
いやぁ、ご意見を十分に忖度できていなかったようで、お手間をおかけいたしました。読解力がまだ足りません、反省。

国歌というものの前提としての知識や認識、それらが違うところでの議論が不毛であるということですね。月の形を語るのに満月と三日月を見た人の話合いに合致が見られないようなものですね。

ちなみに君が代における「君」は歌う人がだれを想定してもいいようになっているとどなたかが書いておりました。もし、天皇を指すならば、「大君」であり「御世」にならなければ不敬だと。君が代、国旗にしてももう少し背景というか成り立ちを調べてみたいと思います。

深夜にも関わらず、ご指導頂きまして、誠にありがとうございました。
by FD3S (2005-03-30 11:55) 

FD3S

ntさま、はじめまして。
コメントありがとうございます。もう仰るとおりです。

彼らにとって、大事な信条とは、減給1/10、1ヶ月で揺らぐほどのものでしかないという事実が今年の処分者数が激減したことからも伺えます。
結局、単なる我儘や甘えでしかないのです。もっと言えば社会人としての自覚がなく、自立できていないということです。

では、何故、信条に触れるような仕事を選ぶのか、教員に関して言えば、それが「楽」だからではないでしょうか?そして、職業選択の自由があるにも関わらず変えないのも「楽」だからだと思います。およそ、民間企業ではやっていけないでしょう。

駄々を捏ねるのは、彼らの常套手段ではあるのですが、君が代日の丸問題の理不尽さは、日教組の衰退が一因だと思います。かつてのように100%に近い教員が組合員だったころは、まだ発言に重みがあったでしょうし、自制も効いていたのでしょう。
ところが、組織としての訴求力が低下し、存在意義すら薄れているいる現在、法を変えようにも大儀もなく、賛同してくれる同士もない。
となれば、最早、自制が効かない状態で先鋭化した言動ばかりになるというのはある意味自明のことで摂理なのかもしれません。
by FD3S (2005-03-30 12:23) 

ビーグル

こんばんは
「内心の自由」という言葉で検索をして、君が代反対/賛成意見をたどってここにきました。私は君が代に賛成派です。私はあまり言葉がきれいじゃないけど、あるていど冷静に書かねばと思っていました。でも、ここの書き込みは私の気持ちを代弁してくれたようで、なんか嬉しいです(頭上の天使は冷静にと言いますが)。

年に1、2回の国歌斉唱で内心の自由が守られないとしたら、なんて弱いものなんでしょう。心とは。弱い、弱すぎる。古いトピックに書き込んでしまいましたが、お許しください。
by ビーグル (2005-07-19 23:09) 

FD3S

ビーグルさん、はじめまして!ようこそ拙ブログへ!
コメントどうもありがとうございました。
都合により返事が遅くなりまして申し訳ありません。

>私は君が代に賛成派です。
→私も君が代に賛成です。国歌だからという単純な理由で、です。とりわけ君が代に執着するものではなく、おそらく多くの人が普通の感覚としてもっているであろうそれと同じだろうと思います。

>ここの書き込みは私の気持ちを代弁してくれたようで、なんか嬉しいです(頭上の天使は冷静にと言いますが)。
→それは光栄ですし、こちらこそ共感頂きまして嬉しく思います。私にもいるだろう頭上の天使はどうどうといっているようですが(笑)。

>年に1、2回の国歌斉唱で内心の自由が守られないとしたら、なんて弱いものなんでしょう。心とは。弱い、弱すぎる。
→彼らの言う心、それは子供をめぐる様々な報道にも共通点があると思いますが、「弱い」という言葉がホントしっくりくるなと思います。脆弱な心というか生きるということに真剣に向き合っていないのではないかと思うことがこういう事例から伺えるような気がします。犯罪の低年齢化も生きるという、実は平坦でも平易でもないことを軽んじた結果ではないかと思います。
国旗や国歌などで損なわれるような脆い内心の自由なら、およそ一般の社会生活はできないと、自白しているとしか私には思えません。まぁ、苦しい言い訳のための屁理屈でしかないのでしょうけど。

>古いトピックに書き込んでしまいましたが、お許しください。
→いいえ、お気遣いは無用です。いつのものでもコメントは大歓迎です。しばらく都合により更新が途切れますが、今後とも宜しくお願い致します。
by FD3S (2005-07-27 10:46) 

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