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ローマ法王逝去 [2005年4月]

ローマ法王逝去

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が亡くなられました。享年84歳でした。

私は、宗教というバックボーンがないのですが、小学校の頃は近所の教会に信者の友達に連れられて何度か行ったことがあります。
法王様は九州に来たことがあり、当時中学1年ぐらいの私は、友達が興奮してそのことを話しているのを聞いて、ニュースなどを興味深く見ていたものでした。
そういうことがあったせいか、信仰とは関係なく、何となく大きな人が亡くなったような喪失感があります。比べるのは(信者の方にしてみれば)失礼に当たるのかもしれませんが、祖父が数年前、同じぐらいの年で亡くなった事とダブって見えました。

ご冥福をお祈り申し上げます。また、信者の方々のご心痛をお察し申し上げます。


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コメント 6

antonian

FD3Sさま>
教皇への弔辞、ありがとう御座いました。
私の感覚も似たようなもので、じいちゃんが亡くなった。って感じです。
様々なブログを読んでいると教皇が意外に日本人に人気があったことを知り驚きました。キリスト教は嫌いだけど、カトリックは嫌いだけど、彼は好き。という方が多い。彼自身のカリスマ故のことではあるので、そうだろうなぁ。と思いつつ、逆にカトリック教会という「組織」に対する不信感は根強い。こうした状況はナンだろうか?と考えましたね。
これに関しては詳しく私のブログにうだうだ書きましたが、こうした組織への不信感は日本人と国家と個人というものにも当てはまるのではないかという気が致します。
教皇はいい人で好き。だけど、彼の所属する教会とは別物。というものの見方は、教皇自身にとっては困惑するものだと思う。というのは彼のあのイメージはカトリック教会、或いはキリスト教精神そのものだからで、マザーテレサなどもまさにカトリック的な人であったと同様なのですが、評価する人間はそこは切り離したい。そういう眼差しは、「組織」への不審と「個人」への評価というもので成り立っているわけですね。
同じことが日本という「組織」を見る眼差しに起きてはいないかと、ふと考えました。
まだその当りがまとまってはいないのですが、我々自身の中にも、また反日と呼ばれる人々の中にもそういう眼差しがあり、それがどのように作用するのか考えてみたいな。と思った次第です。
by antonian (2005-04-04 13:56) 

ko-ba-ber

TBさせていただきました。
私は無神論者なので、ほうおうについての批評はできませんが、率先して行動する偉大な指導者だったと思います。
ご冥福をお祈りします。
by ko-ba-ber (2005-04-04 22:22) 

FD3S

antonianさま、いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。
信者の方の思いと私の思いは大きく次元が異なるのでしょうが、宗教という枠を超えた悲しみが多くの方にあるのだろうと思います。多くの方が法王やマザーテレサの姿に「平和」を感じ、求めたからかもしれません。

個人に対する思いとその個人が所属する組織及び集団への意識はantonianさんが言われるように異なるだろうと思います。
反日的な動きをする集団は忌み嫌ってもその個々人を嫌いになるというのは少々違いますから。
勿論、実際、身近にいて付き合いがある/ないの違いもあるかもしれませんけど。
アンチ巨人の私ですが、長島茂雄氏は好きみたいな感じでしょうか(笑
by FD3S (2005-04-04 23:03) 

FD3S

ko-ba-berさん、いらっしゃいませ。
コメント&T/Bありがとうございました。

>私は無神論者なので、
私もです。宗教的な価値観や教えには学ぶところが多いのですが、それだけに多くの教えを外側から見て学ぶ方がいいような気がするからです。
法王の死を悼む人が多いことは、教えを超えた存在であったことの証左でしょう。
冥福(というのが教義上正しいのか分かりませんが)をお祈りしましょう。
by FD3S (2005-04-04 23:14) 

antonian

FD3Sさま>
信者は案外さばけたもので、もう日常に戻っていますよ(^^;

個と組織。そうですね〜、今はやはり個人の時代なのかなぁ?と思ったりしますね。
私が考えたのは、組織に対する責任の欠如という感覚ですね。反日の方々の意見などに良く見られるのですが、自分自身は清い所にいたい。という感覚でしょうか。日の丸君が代反対の根底にもそれがあるのではないか。自らのうちにある負の要素を排除したいという潔癖さと申しますか。だからなにかよい存在を評価する時も負の要素とするものは排除したい。でも、組織というのは負の要素もあるわけでそれはしょい込みたくない。だから純化される個を評価する。そういう眼差しがあるんじゃないか?と思ったりするのです。
で、カトリック教会はもうともかく過去は酷いものでしたから未だに叩かれまくりますが、その感覚は日本が過去のことであれこれ未だに非難されている状況に通じています。けれど、なんというか負の遺産もしょい込みながら自己の所属する場を愛し続ける覚悟っていうのも必要だよ。などと思いますよね。

あと冥福とか、全然オッケーです。
そう言って下さる方の、気持ちが大切ですし、嬉しいです。
by antonian (2005-04-05 02:20) 

FD3S

antonianさん、いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。
>自分自身は清い所にいたい。自らのうちにある負の要素を排除したい

これはそうだと思います。彼らが周辺国へ謝罪しろ、賠償しろというのも決して自分がするわけではない、という感覚がそうさせるのではないかと思います。
およそ、何らかの集団、組織に属していれば、その中にいる個を切り離すことはできないにも関わらず、です。
だから、彼らの主張は独善的であったり、主体がはっきりしなかったりするのでしょう。

人は清濁・善悪という相反するものを併せ持つ存在であり、だからこそ、宗教その他の救いが必要である(と私は考えています)。

清らかでありたい、善でありたいと思う気持ちは、濁や悪を知っているからこその価値観であり、大切なのは、濁や悪から目を背けずに肯定し、清や善を希求しその究極に近づこうと切磋琢磨することではないかなと思っています。

私は濁や悪をまだ多く抱えている未完な状態です。恐らく一生かけてもそれを完全に払拭することはできないでしょう。
でも、清や善を目指すことを諦めれば明日を生きる希望など湧いてこないと思います(って聖人のようなことを言っていますが、煩悩にいつも負けっぱなしです)。
さぁ、明日(今日かな)も頑張ろうかな。
by FD3S (2005-04-05 03:10) 

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