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あっちが赤ならこっちは緑? [2005年2月]

あっちが赤ならこっちは緑?

以前から炎上系ブログについて様々な方が論じられていたのですが、私には敷居が高いと思って遠慮していたのですが、いつも行く若隠居さん@「若隠居の徒然日記」枇杷さん@「園丁日記」で右翼って左翼って?みたいな感じな記事を見て、ふと考えるに私はどっちだろうかと、その前にどっちかに相当するのかと考えて、ホント何を今更って感じなんですが、何やら書こうかなと思った次第です(長い上にまとまりに欠けておりますことをご了解の上お読みください)。

このブログでは基本的に自分が「おや?」と思うことに対して自分の考えを整理するということをコンセプトにしているのですが、過去記事を改めて見ると結果的に所謂「左翼的」なものに対して批判やツッコミを入れています。

「左翼的」と言いながらも、じゃあ「左翼的」なものって何だい?って問われると明確さに欠けていると感じました。そこで、いろいろと考えてみました。

タイトルにあるように「赤」や「緑」というように特定の主義や主張を色で表現する場合、「赤」に相対する色と言えば、その補色(色相環で向かい合う色)である「緑」かなと思います。補色関係にある色は混ぜると灰色になります。また互いに際立たせ合う関係にあります。例えば肉屋さんで真っ赤な肉が緑の人工芝みたいなものにのっているように。因みにまぶしい光を見た後瞼に残る色も見た色の補色になります(補色残像)。
赤=左翼、緑=右翼とした場合、上のような色に見られる関係はあるでしょうか?
1.お互いを際立たせる存在であること(対極的である)
2.それを混ぜると灰色になる(中間はグレーである)
3.1故に、その強い光を見た後(強烈な人と接した後)、対極の補色が目に焼きつく(逆の考えがよく思えるor悪く思える)

どうでしょう?イメージとしては何となくこんな感じかなとも思えます。ただ、赤や緑以外の純色はこの場合どうなるとか、中立とはこの2つの考えが均等に混ざっていることなのかと考えると少し違うようにも思えます。

では次、
「犬が西向きゃ尾は東」という言葉があります。これを引いたのは、思想観を線分に擬えて考えるためです。この場合「顔」と「尾」が線分の端点に当たります。それぞれの端点を右翼・左翼とした場合には線分の中間が中立的なポジションとなります。その端点は「Edged Right」「Edged Left」とでも言えるかと思います。
ただしこの場合は、それぞれの端点には接点がない状態での対極関係にあります。
左翼、右翼とはこのように接点がない状態でしょうか?
issaさんの記事によると、日本的な左翼・右翼には「天皇」という概念が外せないとあります。全てがここに帰結し収斂するかどうかは別として、ティピカルな例とすれば「天皇」という存在や意義(及びそれから想起される国家観や思想観や主張)が、これらを検知するリトマス試験紙みたいな役割を担っていると考えることができそうです。
これを考慮すれば日本における右翼・左翼には少なくとも「天皇」という接点があるので、この「犬が・・・」のように線分における端点の関係だけでも難しいですね。

「天皇」という接点を持つことを考えると上の赤⇔緑で置換的に表現することにも無理が出てきます。この2つの純色は接点となる要素を持たないからです。

そこで、両方の考えからエッセンスを抽出すると、

1.対極的なポジションで存在している(ある意味、互いに強調し合う)。
2.「天皇」という接点を有している。
3.決して相容れない。

となるでしょうか。
以上を加味して、経度に擬えてみたいと思います。中学生の頃習った、イギリスのグリニッジ天文台上を0度とするアレです。
この場合、右翼・左翼は東経180度地点と西経180度地点で、グリニッジ天文台を中立的な思想ポジションとします。線分としての概念は赤道をイメージしていただければよいかと思います。
右翼・左翼ともに「天皇」という接点を持っている(共有ではなく)とすれば、中間点(中立的スタンス)からその点まで、どういう経路をとるかが問題となります。仮に右回りを右翼的、左回りを左翼的とすれば、0度から東経で表現されるエリアは右翼的、西経で表現されるエリアは左翼的となります。
このように考えると線分的な中間点(経度0度)は単なる始点(出発点)という概念になります。これはどうでしょうか?
ここで「今後の天皇制について」を例にとると、右翼的ルートを辿っていけばその終点(極論)は天皇親政でしょうし、一方左翼的ルートを辿ればその終点(極論)は廃止になるかもしれません。
それに対して、現状のままで変える必要がないとするスタンスは、始点からの移動を伴わないため、始点=終点となります。とすればこれを中立と考えることができます。

つまり、変更を伴う可能性のある社会的命題に対して、変更を必要とするものと必要なしとするものがまずあり、後者は中立的と看做します。一方、変更の必要を感じているものには、そのアプローチにおいて全く相容れない二つの考えが存在し、それぞれを右翼的、左翼的と言うのではないかと思います。

それでは、右翼的・左翼的アプローチとはどういうものかというと、「天皇」といものを思想の根本においているという意味においては、前者は君主道徳的な発想で、後者は奴隷道徳的な発想ではないかと考えています。ここで、
君主道徳とは
ニーチェの主張した貴族・支配者の道徳。世俗の善悪の観念や怨恨・心弱さを克己して、生命と権力の充実のままに生きる強者の道徳。
奴隷道徳とは
ニーチェの用語。強者・支配者に対する怨恨(ルサンチマン)から成立する弱者の道徳。キリスト教道徳がその典型であり、偉大な者への怖れと不信、弱者への同情、狡猾な卑下と反抗などを特徴とするという。
(以上:三省堂 大辞林 第二版より)

これはニーチェの定義に対する解釈ですから、そのまま当てはめるにそぐわない所もあります。情愛の念などは、両者ともに自発的な感情として存在するでしょうし、(私はキリスト教徒ではないですが)上記の「キリスト教道徳がその典型である」という部分は現代においては当てはまらないでしょう。

長くなって、出口を見失いつつあるのですが、自分はどうかといえば結局どっちもですしどっちでもないんです。またこの二つに該当しない中立的な部分も多々あります。
ところで、冒頭で私は『所謂「左翼的」なものに対して批判やツッコミを・・・』と書きましたがここまでくると、左翼的な発想そのものを全否定はできない自分がいます。これは逆説的に言えば右翼的なものが常に正しいわけではないと言うことにもなります。

じゃあ何が問題なのか?
それは「左翼的」な発想や思想そのものではなく、それを標榜している人達の一部の言動に欺瞞や胡散臭さを感じて反発しているような気がします。

例えば、最近のニュースで社民党が党職員をリストラするというものがありました。「左翼的」である彼らの主張であった雇用の確保もワークシェアリングも多いに賛同できるものなのですが、それを主張しながらそれに反する行動をする。理想を高らかに宣言しながら行動が伴わない。そういう姿勢が私をして「左翼的」なものを批判せしむる元凶のように感じます。

何て言うか、非現実的な理想論から感じる欺瞞に対する反発かなと。


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abusan

拙blogへのコメント有り難うございますm(__)m

線という見方で言ったら全くその通りだと思います。

でもダブルスタンダードと言う言葉も有るように相反する
思想が混在する場合もあり得るかと思われます。例えば
勝谷誠彦なんぞは典型的な見本かと思われます
 > ダブスタ

お陰で2chマス板でアンチスレまで立っている状態ですし(^_^;)
by abusan (2005-02-22 09:42) 

abusan

再度読んだら「混在」の部分にも言及されてました。
大変失礼しました。

兎に角、禿しく同意ということでお願いしまつm(__)m
by abusan (2005-02-22 09:44) 

FD3S

abusanさま
わざわざお越しくださりコメントまで頂き、ありがとうございます。
聡明な←系の人の中には、さりげなく、少しずつポジションを真ん中よりに動かしたりしてますね。ただ、完全に→系にはなりきれない所があって、「そうだ!」って思うときと「はぁ?」って思うときのギャップがありますね。
もっとも、思想の峻別ができずに混同したまま、自己矛盾に陥る人もままいるようですが。
勝谷氏のそれはどっちなんですかね?いいこと言ってるときとそうでないときのギャップがあって悩ましい人です。

今後とも宜しくお願いいたします。
by FD3S (2005-02-22 21:46) 

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